「…何故、そんなに急ぐ必要があるんだ。」


  アレクサーの自室に、部屋主の低い声が拡散した
  問い質すと言うよりは、寧ろ目の前の人物を純粋に訝しんでいると表現した方が妥当かもしれない
  猜疑の言葉を投げ掛けられたは、明らかに困惑した表情でベッドからその半身を起こした


  「怒らないで、アレクサー。」

  「俺は怒っている訳じゃない。そんな事くらいは、君も判っている筈だ。
   …俺が言いたいのは、もう少しその身体を休めてから家に帰った方が良いと、ただそれだけだ。
   それに、身体が万全でないうちに帰宅すると言うだけではなく、一人で帰るだなんて一体どうしてなんだ?」


  の足元に座したアレクサーは、すぐ側までその身を近付けそっとの手を取った
  …アレクサーの言う事は全く以て道理である
  昨晩の恐ろしい出来事――に取ってはおそらくそうであろうとアレクサーは思うのだが――からまだたったの一夜しか経過していないのだから
  確かに、右頸部に刻まれた一筋の傷と共に、はその腕に小さな傷口を穿たれはしていた
  それは、アレクサーをおびき寄せる脅迫状の片隅を染めるに足るほどの、ごく僅かな血液を供するためであったのだが。
  …だが、その他には目立った外傷は見当たらない
  何故ならば、に余波が及ばぬ様、アレクサー自身が細心の注意を払いつつセルゲイを打ち伏せたからだ
  が今殊更に帰宅出来ると主張するのは、その身体面のコンディションから判断したものであろう


  「そんなに大袈裟に言わないで、アレクサー。…私なら大丈夫、ほら。」


  は少し笑って見せると、腕に残る小さな傷口をアレクサーに示した
  セルゲイに囚われている間に自然に止血したそれは、帰宅後のナターシャの手厚い処置によって今や新しい痂(かさぶた)が形成されるに止まる程のごく軽症に見えた
  だが、アレクサーは表情を曇らせたまま、頭を軽く横に振ると溜息を一つ落とした


  「…そうじゃない、。君は昨日あれだけ酷い目に遭ったんだ。
   そのショックが払拭されるまでは、此処で休養を取った方が良い。家に帰るのはそれからでも遅くはない。」


  …判っている。私だって、許されるならアレクサーの側にもう少し居たいに決まってる
  でも………。

  の脳裏に一人の男の面影が過ぎった
  記憶の中のその男は、アレクサーの厚い背を貫通する程の険しい眼差しで、暗いガルボイグラードの路地に佇んでいた
  何らかの理由で――考えたくはないが、おそらく財団総帥・城戸沙織が関係しているようだが――カノンがアレクサーを警戒しているのは確かだ
  アレクサーの名を出しただけで、カノンの目が鬼神の色を帯びるであろう事がには容易く予想が付く
  それだけに、昨晩自分の身に降りかかった災厄をカノンには微塵も気付かれてはならないのだ
  …何と言っても、昨晩が帰宅しなかった事実は如何とも動かし難いのだから。
  無断で一夜を明かしたその言い訳だけでも円滑に遂行するのは並大抵の事ではないのに、この上あの家までアレクサーを伴えばどんな恐ろしい事態になるのか、は考えたくもなかった
  いっそ、カノンに関する一連の事情をアレクサーに打ち明けてしまえば良いのかもしれない
  だがその場合、おそらくかなりの確率でアレクサーはを此処に留め置くだろう
  その結果、突如失踪してしまったをカノンが探しに来ない筈は無いだろうし、最悪の場合、事情を知ったアレクサー自らがカノンと接触を求めるかもしれない
  …いや、心の奥底では常に激しい炎を燃え滾らせているアレクサーの事だ。必ず行動に出るに違いない
  今のは、例え自分がアレクサーに訝られようともそれだけは絶対に避けたかった
  窓の外に拡がる初夏のガルボイグラードの街並みを無言で見詰め、は意を決して傍らのサレクサーを見上げた


  「…私の家には同居人がいるの。NGO関係の人なのだけれど、昨晩はこうして此処に泊まってしまったからきっと心配してると思う。
   だから、今日は帰らなきゃ。…ね?」


  嘘は吐いていない。……同居人がカノンである事までは、今は言わない方が良いだけだ
  此処で下手な嘘を吐いても、きっとアレクサーは気付いてしまう。だったら、最小限必要の情報だけに留めておくのがお互いに取っても一番良い筈

  ごくごく自然に、にこりと笑うとは自分の手の甲に置かれたアレクサーの指を握った
  ベッドの傍らに座るアレクサーはのその手を握り返し、自らの膝の上に導く


  「…そうだったのか。だが、俺はそれでもやはり君の事が気掛かりだ。」

  「ありがとう。でも本当に心配しないで。
   私だって、ずっと此処に居たい。…アレクサー、貴方の側に。
   でも、このまま私が帰って来なかったら、同居人はNGOにそれを報告してしまうわ。そうしたら、大変な事になるかもしれない。
   他のメンバーや団体のためにも、それだけは絶対に避けないといけない。…解って、アレクサー。」

  「…では、俺がの住むその家に出向いて、同居人にの事を伝えて来るのはどうだろうか。それだったら同居人も闇雲に報告するようなことはしないだろう。
   やはり、まだ君を帰らせるには忍びないよ。」

  「それはいけないわ。メンバーには、他のメンバーの安否の報告義務があるの。
   …この国のNGOは、ただでさえ常に危険に曝されている。
   そこへ私の負傷を報せたら、却って逆効果になる。下手をしたら総ての団体に退避勧告が出てしまうかもしれない。」


  は尤もらしく聞こえる理由を述べた
  それは無論口からでまかせの偽りではなく、NGO憲章に本当に定められている細則であった
  …だが、カノンはそもそもNGOのメンバーではないのだから、それに従う理由も義務も元より無い
  アレクサーとカノンの接触を実現させてはいけない。ただそれだけのために、は己自身ですらも欺かざるを得なかった
  アレクサーはのその深刻な横顔を暫し見遣り、緩く頷いた


  「そうだな。今多くのNGOに去られてしまったらこの国の民が不自由するし、ブルーグラードは孤立を深めてしまうだろうな。
   ………それに、、君に去られては俺が困る。」


  アレクサー、と名を呼び掛けたの唇を俄に塞ぎ、アレクサーはの背に手を掛けた
  そのまま抱き寄せられたの身体が、アレクサーの腕の内に収まる
  アレクサーの厚い胸板の感触に己の柔らかなそれを重ねつつ、唇を塞がれたは意識が朦朧とするような官能の予感に再度耐え続けるしかなかった
  ――アレクサーは、今はを抱かない。
  それは、が昨晩受けたに違いない肉体的・精神的ショックを慮っての、彼なりの優しさの表れであった
  アレクサーが持つ若く瑞々しい熱情によってそれを忘れさせる事も出来るにも拘らず、敢えてそうしようとしないのは若さ故にそこまで気付いていないからなのか、それとも彼の真摯さのためか
  何れにせよ、自分を抱き締める以上の事には及ぼうとしないアレクサーの思い遣りをひしひしと感じつつ、はアレクサーを納得させるための次なる理由――カノンの待つあの家近くに、何としてもアレクサーを伴ってはならない――に考えを巡らせるのだった
  長い長い口付けの後、は少し上目遣いにアレクサーの顔を覗き込んだ


  「…昨日、此処に泊まってしまった以上、もしかしたら心配した同居人がNGO本部に報告を入れてしまっているかもしれない。だから今日の早いうちに直接本部に寄ってから帰るわ。
   貴方は昼間はこの街中に姿を現さない方が良いみたいだし、本部まではパートナーであるナターシャについて来てもらった方が説得力があるわ。
   …だって本当にナターシャの家に泊まったんだし、ね。」


  悪戯じみて笑いを洩らしたに釣られるようにして目元を緩め、アレクサーは少しだけその首を傾けた


  「そうだな。…解った、ナターシャを付けよう。だが、くれぐれもあいつらの存在には気を付けて欲しい。
   ……昨日の一件で、暫くはおとなしくなるとは思うが…。」

  「ええ、解っているわ。ナターシャにも危険が及ばないように、日のあるうちに本部から帰すから心配しないで。」

  「君の着ていた服は血の染みがついてしまっているそうだから、ナターシャの服を着て行ってくれて構わない。………ああ、そうだ。」


  何かを思い出したアレクサーはベッドから立ち上がって自分の机の上に近付くと、小箱を携えて戻って来た
  開かれた蓋の中には、にも見覚えのある楕円の石が入っていた
  あっ…と小さな声を上げては自分の胸元を探る

  昨日アレクサーから貰ったペンダント…!

  昨夜の騒動で、の気付かぬうちに外れてしまったらしい
  少々ばつの悪そうな表情のに満面の笑みを見せ、アレクサーは取り出した石にチェーンを通した
  金色の鎖からサラサラと繊細な音が流れ、の鼓膜を軽くくすぐる


  「俺がセルゲイを倒した時の余波で、どうやら鎖が切れてしまったようだ。だから君が気にする事はない。」


  アレクサーはぴたりとに身を寄せ、襟の後ろにゆっくりと手を回した
  の襟元の髪を愛しげに指に取り、そっと脇へ流すと項に触れた
  あっ……とその指の熱い感触にが小声を洩らす
  金色のバチカンを繋いだアレクサーはフッ…との耳元で低い笑いを零した


  「…、君が求めるまでは、俺は何もしない。」


  ――本当は、今すぐにでも君を抱いてしまいたい。
  その一言を飲み込んでアレクサーはの胸元に光る紅のシラーを見詰め、石と同じ程頬を紅潮させたに再びその唇を落とした






  ××××××××××××××××××






  NGO本部前でナターシャと別れたが市街地を後にしたのは、昼下がりの事であった
  郊外へと続く道は、この短い夏の間だけその姿を垣間見せる
  貴重な日差しを謳歌する丈の短い草々をが踏みしだくと、サクサクと小さな音が辺りに拡散した
  軽やかなその囁きとは裏腹に、の胸中は一つの懸念にどんよりと掻き曇っていた

  …アレクサーはなんとか説得出来たけど、これから先は、そう……まさに一寸先は闇。

  家でを待ち受けているであろうカノンに対し、嘘を突き通すのは並大抵の業ではない
  総てを見通すカノンのあの鋭い眼差しを想起するだけで、の背筋には季節外れの寒気が走るのだ

  …どうか、カノンが不在でありますように

  それは只単に問題を先延ばしにするに過ぎないのであるが、そう祈らずにはいられない
  視界の端に見覚えのある小さな屋根が近付くに連れて、の足取りは次第に重苦しく、遅くなった



  今となっては厭わしいだけの玄関扉の前に立ち、はゴクリと息を呑んだ

  …ええい、儘よ。

  胸の高さまで上げた腕を一度だけ止め、は握り締めた指の節で木のドアを叩く
  コンコン、と言う短く乾いたノックの音が家の内外双方に響き、そして消え去った
  …たっぷり一分近くもの間、はその場に固まったまま微動だにしない
  止めた呼吸が苦しくなって初めて、は時間の経過に気付いた程だ
  恐る恐る扉に近付き、片耳をそっと当てて中を窺う

  …もしかして、本当に居ないの…?

  物音一つする気配すらも感じられない
  俄かに安堵したはナターシャから借りた上着のポケットに手を伸ばし、家の鍵を取り出した
  ――もしも、昨晩以前からカノンが家を留守にしているのであれば、の不安はただの杞憂に終わるのではないか
  思い出してみれば、カノンはこれまでにも数日家を空ける事があった
  カチリ、と鍵が軽い音を立てて開く頃には、の気分もすっかり晴れ渡っていた
  何時ものリズムでノブをクルリと回し、玄関を潜ったの軽やかな足取りは、目前の男の腕組みをした姿に瞬時にして凍付いた


  「………カノン……居たの…。」

  「居ては何か不都合だったか。」


  刺々しい冷ややかな視線が、容赦無くを突き刺した
  はそれ以上何も口に出来ぬまま、ただその場に立ち尽くすより外に為す術を持たなかった
  後背に開かれたドアの隙間から入り込む夏の風がの髪を揺らす


  「扉を閉めて中に入ったらどうだ。」


  に険しい視線を刺したまま、カノンが冷たく言い捨てる
  …もう、逃げ場はない。
  しばし諦観に苛まれたはやがて無言のうちに後ろ手でドアを閉じ、カノンの手前までじりじりとその歩みを進めた


  「…あの…、実はその………」

  「昨晩は一体何処で夜を明かした。」


  組んでいた腕をやけにゆっくり解いたカノンが、ずい、との胸の前にその逞しい肉体を近付けた
  緩慢なその仕種は、弱った獲物を追い詰める獣そのものだ
  ひっ………と微かな悲鳴じみた声がの喉の奥から洩れたのをさも愉しそうに味わい、カノンは口の片端を引き上げて笑った


  「俺が留守にしていれば良いと、お前がそう願うような後ろ暗い事実が存在すると言う事か。」

  「そ……そうじゃないわ。昨日は、話し合いと仕事が長引いたのでメンバーの家に泊まったの。それだけよ。
   急な事だったから連絡出来なかったの。それは謝るわ。」

  「………ほう、そうか。」


  の言い分など、最初(はな)から信じていない。
  そう言わんばかりの返答が、カノンの整った酷薄な唇から滑り落ちた
  …カノンの恐ろしい視線から瞳を逸らす事は、今のにはとても出来る筈も無く。
  少しの間言葉を失ったは、それでも自らの話を聞いてもらうべく目前に迫るカノンを真っ直ぐに見詰めた


  「私がメンバーの家に泊まった事は、本部の人達が証明してくれるわ。」

  「それはどうかな。…口裏を合わせるなど、それこそ造作も無い事。」


  取り付く島も無いとはまさにこの事か。
  身動きを取れぬよう視線でをその場に突き刺したまま、カノンはそこに潜む微かな偽りの気配を探り当てるため、否定の言葉を次から次へと投げ付けた
  …気後れを見せたら、その時点での負けだ

  …こうなったら、何が何でも言い分を突き通すより外にない。

  腹を括ってカノンを見上げたのその首の動きを、カノンの俊敏な両の目は逃さなかった
  口を開き掛けたの動作を封じ、カノンの長い指がの襟元を捉えて少しばかり脇に押し拡げる


  「…この傷口はなんだ。」


  …それは、昨晩セルゲイによって傷付けられた箇所の上からナターシャが膏薬を施してくれた物であり、今となっては赤黒い瘡蓋を残すばかりだった
  だが、その細長い瘡の形を一瞥するだけで、それが鋭利な刃物状の物体によって生じたのは明白であった――戦士であるカノンに取っては、尚の事。
  薄く唇を開いたまま次なる言葉を紡ぐ事すら適わぬを見遣るカノンの目が、刃物と同じく怜悧なまでに細められた


  「…まさか、うっかり何処かで転倒した際に付いた傷だ、などと今更解り切った嘘は吐いてくれるな。」


  総てお見通しだ。
  咄嗟にの口から、う………と小さな呻きが漏れる
  カノンは更に付け加えた


  「…このシャツは、お前の物ではないな。お前の身体とは些か大きさが違う様だが。」


  文字通り窮鼠の如く追い詰められたに、カノンは更に一歩、じわりと距離を縮めた
  見憶えの無いそのシャツの襟元に掛けた手がその拍子に少しばかり下にずれ、の鎖骨が掠める
  …刹那、カノンの眦(まなじり)が狂気に見開かれた


  「…お前が何故これを持っている!?」


  プツッ、と音を立て、のシャツ――元を糺せばナターシャのシャツであるのだが――のボタンが二つほど弾け、無残にも床に転がり落ちた
  カノンにより押し広げられすっかり露になったの胸元には、アレクサーの贈ったあのペンダントが数条の光を放っていた
  のシャツの襟を持っていた手とは逆側のそれで、カノンはペンダントのヘッド部分を掴んだ
  力任せに掴まれた反動でヘッドを繋ぐ金色の鎖が引きちぎれ、焼けるような痛みに襲われたが悲鳴を上げる


  「…痛っ……!」


  だが、カノンはのその悲鳴にはお構い無しに、手にしたペンダントの紋章を執拗に目でなぞった後、の顎に己の手を掛けて上向かせた
  の眼の高さに石を示し、半ば狂乱染みた表情でを詰った


  「あれほどあの男には近付くなと、そう言ったのをお前は聞いていなかったのか!?この石の紋章を、俺が知らぬとでも思ったか!?」


  ぐい、との顔を更に上向け、カノンはまさにその鼻先まで近付いた
  すぐ目前のカノンの表情には、今や怒りと狂攘とが濃密に絡み合い、くっきりと浮かび上がっている
  自分は殺されてしまうかもしれない。本気でそう感じ取ったは途端に全身を震わせた


  「あの男(ひと)は…アレクサーは、貴方が警戒するような悪人ではないわ。」

  「その名を口にするな!」


  更に見開かれたカノンの瞳に、紅を帯びた狂噪の光が広がった
  ガタガタと小刻みに震えるの首筋に残る傷跡と、カノンによって新たに付けられたばかりの傷とを交互に見比べ、カノンはの片襟に再びその長い指を掛けた


  「、お前がこれを…あの男の家に伝わるこの石を持っていると言う事は、そう言う事だと思っていいのか。」

  「………そうよ。」


  意を決し短く一言だけ答えたの首筋に、つ…と新たな血筋が細く滴る
  カタカタと震えていた身体は、その一言を発すると時を同じくして不思議にも平生を取り戻していた
  カノンは一度その身を離し、憎しみを滾らせた眼差しをに向けた


  「…そうか。、お前は俺を裏切っていたと、そう言う事か。随分巧妙に俺を欺いてくれたものだな。
   まあ、それすらも、あの小僧の姑息な入れ知恵の成せる業に決まっているだろうがな。」

  「アレクサーはそんな男(ひと)ではないと、さっきからそう言っているでしょう?
   カノン、貴方がどうしてアレクサーを警戒しているのかは判らないし、敢えて訊かないわ。
   …でも、これだけは言える。彼は冷静で、そして同時に情熱と優しさをも併せ持った素晴らしい男(ひと)よ。……そして、私はそんな彼を愛しているわ。」


  毅然と断言したは暫し肩で息をした
  すぐ前に立つカノンの目の色がみるみるうちに怒りに染まる


  「愛しているだと!?…お前はそこまであの男を盲信しているのか!
   そしてその結果はどうだ?……俺の目は誤魔化せないぞ。」


  カノンは忌まわしき石を握っていた手での片腕をグイと引き、シャツの袖を捲り上げた
  脅迫状を染め上げるために穿たれた傷口が、やはり生々しい瘡蓋の姿で二人の前に晒される


  「俺があの男に近付くなと警告したのは、、お前を危険に晒したくなかったからだ。
   …あの男には、拭い難い危険の臭いがする。」

  「この傷は、あの男(ひと)のせいで付いた訳じゃないわ。」

  「………。昨晩から今まで、俺がどんな心境でお前の帰りを待っていたか、お前は考えた事はあるのか。」


  は、カノンの静かなその一言にはっとして言葉を失った
  ぴたりと反駁を止めたに対し、カノンは軽く目を細めて軽蔑を露にした
  端整なその口元には、今やぞっとするほど冷たい笑みが浮かんでいる
  突然怒りから冷めでもしたかのようなカノンの不気味な表情を前に、はゴクリと固唾を飲んだ


  「それなのにお前と来たら、あの男と陰で一晩中よろしくやっていたとはな。…俺もとんだお笑い種だ。」

  「…違う!」

  「………違うか否かは、お前のこの身体に聞けば判る事。」


  カノンの手を振り解いて逃げようとしたの両腕をいとも簡単に封じ、カノンはの鼻先に己の冷笑を近付けた
  恐怖に駆られたが後ずさりして遠ざかると、カノンもまた一歩づつ距離を縮める
  一歩一歩、じりじり後退したの身体がトン…と何か硬い物に触れた
  刹那、首だけ振り向いて背に当たるそれを確認したがあっ…と小さな声を洩らす
  …カノンの部屋のドアだった
  僅かに開いたそれに当たったの身体が、更に隙間を押し拡げる
  ドアの隙間から覗く殺風景な部屋の突き当りに置かれたベッドを視界の端に捉えたは、再びその身体を震わせた
  何時もであれば見慣れたカノンの部屋が、これほどに恐ろしく思えたのは初めてだった
  視線を戻したの顔が、厚い壁に触れる
  隆起した胸板からが顔を逸らすと、自分を見おろすカノンの視線とぶつかった


  「…、お前は俺の警告を無視し、そして約束を破った。裏切りの報いは存分に受けてもらう。」


  ひっ…と悲鳴を上げたの身体を一気に部屋の奥へ押し遣り、カノンは己のベッドにを押し倒した
  片手での両腕を頭上に押さえ付け身を乗り出したカノンに対し、は両の足を膝立てて抵抗した


  「馬鹿な真似は止めて!こんな事をしたって何にもならないわ。」

  「…その『馬鹿な真似』とやらを先に犯したのは、一体誰の方だ?」


  抗したの足を割って身体を前に進めたカノンは、の纏う見覚えの無いシャツのボタンに手を掛け、一息に引き千切った
  そして間髪を入れずにボタンの無くなったシャツを上に捲り上げると、頭上に押さえ付けていたの両の手に巻き付け、寝台の宮の部分に括り付けた


  「…お願いだから止めて、カノン。」


  動きを封じられたの口から、懇願と共に弱弱しい嗚咽が漏れた
  露になった腹部の白い肌が、小刻みに震える
  カノンはのその様子を一瞥すると、ベッドに沈めた己の身を一度起こして床に立ち上がった


  「止めろと言われて、そこで止める男は居ない。
   …それに、お前は今『こんな事をしても何にもならない』と言ったが、俺に取っては意味の在る事だ。…十二分にな。」


  口の片端を引き上げて笑い、カノンは部屋の窓から覗く傾いた太陽と地平線をじっと見遣った


  「裏切りの報いを受けてもらうには、時間はたっぷりあるようだ。……長い夜は、これから始まるのだからな。」


  力無く横たわるを見おろし、カノンは己のシャツのボタンに長い指を掛けると、下へ向けて一つづつゆっくりと外し始めた






  ××××××××××××××××××





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  ××××××××××××××××××






  夜の帳がブルーグラードの街を覆い尽くす頃、アレクサーとナターシャの住むフラットのドアを小さな物音が掠めた
  小石が当たった程度にしか思えないであろうごくごく微かな音は、それが二度であった事により、人間の成した物である事が判る
  もしや、と思ったアレクサーはリビングを抜け、玄関へと足早に近付いた


  「………!」


  開かれた扉の前に立っていたのは、無言で項垂れた恋人の姿だった


  「、どうしたんだこんな時間に…」

  「…アレクサー、私………。」


  短い一言と共にようやくの事で顔を上げたの首筋を捉えたアレクサーの目が、驚愕に見開かれる
  …いや、アレクサーが鋭い目を見張ったのはその首筋のせいばかりではない
  よくよく闇に目を凝らして見れば、急いで羽織ったと思しき白いシャツの袖口から覗く腕やスカートから伸びるふくらはぎに至るまで、明らかに愛咬と思しき痕跡が点々と刻まれていた


  「ア、アレクサー、……私…私………!」


  語尾を震わせ、ただ目の前に立つ男の名を呼ぶの濡れそぼった目元を見たアレクサーは、の身に降り懸かった悪夢の如き事態を悟った
  やはり衝撃が強かったのだろうか、アレクサーは毫の間だけ言葉を失ったが、すぐにの痛々しい身体を己の胸と腕で覆った


  「もう良い。もう良いんだ、。……今は何も言わなくて良い。」


  アレクサーはの身体を力一杯抱いた
  それまで涙に霞む瞳でじっとアレクサーを見上げていたは、その一言で恋人の厚い胸に己の顔を埋め、初めて大きな声で泣いた








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